人様の誕生祝などに、花束を送るのが好きである。


自身がほしいという欲なのか、と苦笑しつつも、誕生日なの、と聞くとそれほど親しくない友人知人でもあの人のイメージはこんな色の感じで....と近所の花屋やネットを物色する。


食べもの・植物は消えものだからだろうか、あとくされが無い感じが好いと勝手に思っている。ものもちのくせにもっと欲しいと思う自分の強欲な性を憂いてしまうのか、人に送るもので残るものはどうも苦手。食べ物はすぐに胃袋に収まるし、花は手入れの好い人だって切花だったら1ヶ月ももてば奇跡だろう。その儚さが好いのか。


うちの母は戦後生まれの今年還暦、五十を過ぎてから己れの楽しみのために精力的に活動をしているが、緑の手を持つ人だと思っている。こんな人に、どうも花を送るのは気が引けて、最近は消えものその1の「食べ物」が主流だ。我が家族はケーキでも大福でもなんでも数種類あった場合は「全種類少しずつ食べたい」という貧乏性からか、丁寧に、母、二つ上の兄、六つ下の妹、そして私の4等分して食べるという性癖があるから名のあるパティシエのケーキを違う種類で4つ。これが最近の近親者への誕生日プレゼントとなっている。


母は一時期は「蘭」にはまり、よく屋上から暖かい居間へ鉢植え大移動など手伝わされていた。お仏壇はもちろん、玄関やご不浄にも花がないことはなかった。とはいえ何々流なんて大層なものではなく、玄関先に咲いているような名も無き花を小さな花壷に生けていて、それは今もかわらない。近所のお花屋さんも知ったもので、私の幼稚園の同級生の家であるが―もう売り物にならなくなった薔薇など、留守でもダンボールのまま大量に玄関先に置いていったりする。「お母さんなら無駄にしないから」というのを聞いたことがある。


確かにそのとおりで、何かお惣菜をもらったお返しに、田舎から送ってきたお野菜と一緒に、といった風にいろんな先に嫁入り先を見つけてくる。「こんなにたくさんどうするの」と思った翌日にはあとかたもなく無くなっていて、玄関先のこじんまりとした花壷には、赤と薄紅色の薔薇が2~3本ちょこんとあるだけだ。


こんな母の誕生日は2月の終わりだった。親不孝だか孝行だか、どちらかわからないが還暦の誕生日に私は日本におらず祝うことはできなかった。が、最近ちょっと胸に刺さったCFの台詞、うる覚えだが確か成人式の着物か何かを選びながら娘が母にゆう台詞、「お母さんも、お母さんとして二十歳(はたち)だね」とかなんとか....。「お母さんも、お母さんとして三十路(みそじ)だね」なんて、なんとも格好の悪い響きではあるが、そんな台詞を吐きながら「今年の母の日には、普段送ったことの無い花なぞ送ってみようか」などと目論んでいる。


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